四次産業革命により企業価値の90%を無形資産が占める現在、人的資本経営は従来の開示中心のアプローチから事業成果に直結する戦略的取り組みへと転換を迫られている。日本企業の30%超がPBR1倍割れという厳しい状況下で、投資家は財務諸表では測定できない人材力・組織力による価値創造を強く求めている。
組織内での人材戦略変革は容易ではない。製薬系ホールディングスの「後継者不在の危機」、エンターテインメント企業の「7年間の試行錯誤」、通信大手の「AIオールインによる人材流動化」、そして多くの企業が直面する「エンゲージメントと業績の因果関係証明」という困難――。
前編では、人事領域の実務家らによるラウンドテーブルでの議論を通じて、企業が組織内で直面している課題と変革への取り組みを詳しく探る。サクセッションプランニングを起点とした戦略転換、ホールディングス経営における人材流動化の現実、業績連動型KPIへの転換、そしてアウトカム測定の複雑さまで、多様なトピックが取り上げられた。
「ナラティブ」の重要性
人的資本経営におけるナラティブの役割
人的資本経営における重要な要素として、「ナラティブ」が改めて注目されている。ナラティブとは、単なる事実の羅列である「ストーリー」とは異なり、「受け手が腹落ちし、具体的な行動変容につながる物語」を意味する。この概念は、ノーベル経済学賞受賞者のロバート・シラーが提唱するなど、世界的に注目されているキーワードである。
人的資本経営においてナラティブを語るとは、自社の人的資本に関する取り組みやビジョンを、投資家が「この会社に投資しよう」、求職者が「この会社で働きたい」と心を動かされるような、共感を呼ぶ形で伝えることである。定量性と論理性を兼ね備えたKPIを設計できても、それがステークホルダーの心を動かすナラティブとして語られなければ、価値創造にはつながらない。
企業が直面するナラティブ構築の課題と実践事例
しかし、多くの企業がこのナラティブの構築に苦戦している。ある企業では、設定したKPI(多様性指数、エンゲージメント、ミッション理解度など)が「最終的なアウトカムにどうつながるか、まだナラティブとして語られていない」と課題を認識している。同様に、「フレームワークに沿って進めているが、KPIが前年踏襲型で戦略との因果関係が十分説明できず、ナラティブになっていない」状況だと話した参加者もいた。
一方で、実践的な取り組みも始まっている。ある消費財メーカーでは社員一人一人がOKRを描き、ROICとのつながりを考える機会を設けている。これは、経営指標を現場レベルまで浸透させるナラティブの構築事例と言える。
ある素材メーカーでは「利益向上と年収アップの連動性を説明する」ことで、ナラティブを重視して従業員の納得感を高めることを試みようとしている。
人的資本経営の成功は、優れたKPI設計と論理的なインパクトパスの構築に加えて、それらを包括するナラティブの力にかかっている。企業は単に数値目標を掲げるだけでなく、その背景にある価値観や将来ビジョンを、ステークホルダーの感情に訴えかける物語として語ることが求められている。
シミックホールディングス株式会社 戦略人事部 CHRO
櫻井 奈古都 氏
先行事例から学ぶサクセッション戦略
セガサミーホールディングスでは、長きにわたり、サクセッションプランニングを実施しているが、その中では試行錯誤も重ねてきた。
同社人財開発本部 本部長の笠井氏は、当初は重要ポストの後継候補者をリストアップし、その育成計画を立てていたと説明した。しかし、後継候補者になりうるような人材ほど現在の配置においても重要な責務を担っており、必ずしも策定した育成計画を全て実行できるようなコンディションにはなかったという。この経験から「重要なポストほど、或いは有望な人材ほど、より早い段階から個別カスタマイズされた育成をしていく必要がある」という気づきを得た。
現在、同社では短期的なサクセッションプランニングだけでなく、長期的な人材育成という二つのアプローチにより対応している。後者は、「10年後を見据えた金の卵の育成」であり、「特定ポジションの後継候補者かどうかという視点ではなく、事業の未来を担うであろう人材」を同社のグループ横断的教育機関であるセガサミーカレッジにおける「未来塾」において、グループの長期ビジョンと同じ時間軸(10年弱)を見据えた育成プロジェクトを推進している。
セガサミーホールディングス株式会社 人財開発本部 本部長
笠井 敬博 氏
透明性とフィードバックの課題
サクセッションプランニングの実践では、透明性とフィードバックの質が重要な課題となる。あるIT企業のCHROは「候補者をプールに入れていることを社内にオープンにしているが、選ばれた人・選ばれなかった人のモチベーション管理が課題となっている」という悩みを共有した。
この課題に対し、先述のシミックホールディングスでは客観的データの活用で対応している。「サーベイを導入し、数値データをバックアップ資料として準備。上司の評価と自己評価を組み合わせ、総合的な判断材料として活用」することで、根拠あるフィードバックを心がけている。
ホールディングス経営における人材流動化
グループ最適化 vs 事業会社の囲い込み
グループ企業では、事業会社間の人材流動化が持続的成長の鍵となる。しかし、「内側での囲い込み」と「グループ全体最適化」の間には、コンフリクトが存在するため、実現には困難が伴う。
ある企業のCHROは外資系企業での経験から、文化の違いを指摘した。外資系企業では「事業責任者にとって後継者がいないことや、他部門に人材を出せるほどの余裕がないことは改善すべき点とされていた。人材育成の成果が問われる文化があった」のに対し、日本では「自部門の人材を外部に出すことへの抵抗」が強いという。
成功事例に見る推進力
一方で、トップの意向により人材流動化が進んでいる企業もある。ソフトバンクグループのSB C&S 人事総務本部 副本部長の谷本氏は、グループトップの孫正義氏による「AIオールイン」という明確なビジョンによる求心力が人材流動化を促していると話した。制度面でもFA制度やジョブポスティングによる仕組み化が進んでおり、「社を渡り歩く」ことが当然の文化として定着している。重要なのは、「そのグループにジョインした人たちが、トップのリーダーシップと方向性に共感している」ことで、変化への抵抗が生まれにくい土壌があることだ。
SB C&S株式会社 人事総務本部 副本部長
谷本 恒大郎 氏
事業変革に伴う人材戦略の進化
三越伊勢丹ホールディングスでは、従来の縦割り構造からの脱却を図っている。同社グループ人事部参与の笠原氏は「エリアでの不動産再開発事業を推進するため、各事業部門の単純な寄せ集めではなく、ならではの価値で融合させることが必要」と説明した。「グループの中核である百貨店事業を十分理解した上で、デジタルを基盤に各専門分野の知見を有機的に連携させる」ための人材育成を重視している。
また、この変化への対応として「子会社からホールディングスへの異動や、全く畑違いの事業へ異動・出向も実施している」という。複数事業を経験することで、同社ならではの差別化戦略を体得してもらう狙いがある。
株式会社三越伊勢丹ホールディングス グループ人事部 参与
笠原 慶弘 氏
業績連動型KPIへの転換
財務指標との直接連携を目指す動き
従来のエンゲージメントや多様性指標中心のKPIから、より直接的に業績と連動する指標への転換が進んでいる。この背景には、「結果として業績向上につながることを示さなければ意味がない」という危機感がある。
ある素材メーカーでは、「従業員年収倍増」という目標を掲げている。同社管理部門の責任者は「みんなが満足して会社が潰れるわけにはいかない。年収を上げるためには利益を上げる必要があり、人を増やせば一人当たりの分配は減る。今いる優秀な人材を最大限活用し、8時間を精一杯活用してもらうことで生産性向上を図る」と話した。
重要なのは、単なる効率化ではなく「この会社で働いて良かったと思ってもらう」という従業員満足と業績向上の両立を目指していることだ。同社では「一人当たり売上高」などの財務指標と人事施策を直接連動させようとしている。
先進企業の取り組み事例
ある消費財メーカーでは、ROIC経営との連携でより高度な取り組みを実践している。同社人材戦略部門の担当者は「OKRを社員一人一人に設定してもらい、それがROICとどうつながっているかを考えてもらっている」と説明した。外部公表した経営指標に確実にミートする施策と、組織単位・個人単位への落とし込みを通じて、戦略と現場の連携を強化している。
業界特性による取り組みの違い
業界特性による違いも見られる。金融業界では、変革圧力が相対的に低い状況がある。ある地方銀行の役員は「銀行は預金と融資が基本で、1990年代から収益構造はそれほど変わっていない。営業成績を上げるために必要な能力も20年前とそれほど変わらない」と語った。
一方で、この安定性は人事施策を推進する上でのメリットもある。「中央集権の利いた組織なので、施策を主導的に実行できる」強みを活かし、「外に出て知見を深める」ソーシャルキャピタル強化を独自のKPIとして検討している。
アウトカム(成果)測定の課題
測定の複雑さ
人的資本経営における困難な課題の一つが、アウトカム(成果)の測定である。ヨーロッパではダブルマテリアリティとして、経済パフォーマンス(アウトプット)と社会的インパクト(アウトカム)の両方開示が必要となっており、企業は二重の説明責任を負うことになる。
因果関係の証明はさらに困難だ。あるIT企業の人的資本マネジメント部長は率直な課題を共有した。「エンゲージメント向上が業績向上につながるという社内での納得感が得られていない。『業績が上がったからエンゲージメントが上がったのではないか』と言われることも多い」
学術的には相関関係は証明されているものの、実際の企業現場では「これをやったからこうなった」という直接的な因果関係の立証は極めて困難である。外部環境による業績変動要因が多様で、人的資本施策の効果を切り分けることができないのが現実だ。
実践例と課題
あるIT企業では具体的な人材像の育成をKGIに設定し、エンゲージメントスコア向上を目指している。同社担当者は「具体的な人材像を設定したのは良いが、それがどうアウトプットにつながるのか、関連を見出せていない」と話した。
ある機械メーカーでは、海外売上が8割を占めることから、人材の多様性の重要性を論理的に説明しようとしているが、実際の業績向上との関連性は薄い。「海外売上8割だから多様性が必要という論理で進めているが、若干こじつけ感があり、本当に業績向上につながっているかは疑問」と語った。
これらの事例は、多くの企業が人的資本のKPI設定はできているものの、それが確実に事業成果につながることを論理的かつ説得力のある形で示すことの困難さを物語っている。
組織内での人的資本経営変革は、複雑で困難な挑戦である。サクセッションプランニングでは「一点突破」による戦略的集中と、7年間の試行錯誤から得た「二軸アプローチ」が有効性を示している。人材流動化では、「トップの明確なビジョンによる求心力」が成功の鍵となる一方、多くの企業では「囲い込み vs 全体最適化」のジレンマが続いていると見られる。
業績連動型KPIへの転換では、素材メーカーの「従業員年収倍増」や消費財メーカーの「ROIC連携」のような具体的な取り組みが始まっているが、アウトカム測定の困難が課題である。また、IT企業や工作機械メーカーの「KPIと業績の関連性が希薄」という課題は、多くの企業が共通して直面している。