第1回:人的資本経営の再定義 ── AI時代に「スキル」が経営と現場を結ぶ


第1回:人的資本経営の再定義 ── AI時代に「スキル」が経営と現場を結ぶ

連載「人材流動化時代の人的資本経営」
これまで日本で語られてきた「人的資本経営」は、率直に申し上げて、ほぼ机上の空論であった。
経営アジェンダに据えられて数年が経つにもかかわらず、議論の重心はいまだ「何を、どう開示するか」に置かれ、現場の事業価値創造に結びつく実装は乏しいまま推移してきた。
しかしAI時代の本格化によって、状況は構造的に変わりつつある。データテクノロジーと人的資本経営が初めて噛み合い始め、その結節点として浮上してきた概念が「スキル」である。
本稿はこの転換点を整理し、人的資本経営を経営の言葉として、現場で動く実装へと引き戻す試みである。

HR未来共創研究所 研究員(トイトイ合同会社代表社員) 永島寛之

■なぜ「人的資本経営」は机上の空論にとどまったのか

人的資本経営は、もともと米国を中心に発展してきた経営思想である。
日本では2014年のいわゆる伊藤レポート、2020年の「人材版伊藤レポート」が議論の転換点となり、2023年には上場企業に対する人的資本情報の開示が制度的に義務化された。
しかし、この過程で、議論の重心はIR・コーポレートガバナンスの領域に閉じ、人事・経営企画・サステナビリティ部門の話に収斂していった。ISO 30414に代表される項目を埋めること自体が目的化する、いわゆる「開示沼」の状況である。
その結果、各社の発信は「人事施策の品評会」の様相を呈する。研修を増やし、サーベイを実施し、健康経営を推進し、1on1を制度化し、リスキリングを推進した。
それぞれに意義はあるが、投資家や経営者の視点から見れば、決定的な問いが残る。それで、どの事業が強くなるのか。どの競争優位、どの収益力、どの顧客価値、どのリスク低減につながるのか。
人的資本開示で本来問われているのは、施策の網羅性ではなく、価値創造ストーリーの説得力である。投じた人材投資が、当該企業の競争戦略にどう寄与しているかを構造として説明できるかどうかが問われているのだ。
これまで、その接続を担うはずだったデータ基盤と運用技術が、人的資本経営の議論にうまく組み込まれてこなかった。これこそが、人的資本経営を「机上の空論」にとどめてきた最大の構造的理由である。

■「人への投資」と「人的資本への投資」を区別する

机上の空論から抜け出すには、まず言葉の定義を明確にしておく必要がある。
人的資本経営は、「人への投資」ではない。「人的資本への投資」である。両者は似て非なる概念であり、混同したまま議論を始めると、論点は急速に抽象化する。
「人への投資」とは、賃上げや福利厚生、働きやすい制度設計など、人を尊重する経営姿勢の表明を指す。経営の出発点として重要だが、それ自体が人的資本経営に直結するわけではない。
一方、「人的資本」とは、人が持つスキル、経験、知識、行動特性、関係性、学習能力、変化対応力などのうち、企業の付加価値創造に資するものを指す概念であり、「人的資本への投資」とは、それらの資本を獲得し、育成し、配置し、発揮させるための投資判断を意味する。
賃上げは、どの人的資本を獲得するためか。研修は、どの事業価値に資する能力を高めるためか。配置は、どの経験資本を蓄積させるためか。これらの問いに答えられる施策のみが、人的資本経営の構成要素となり得る。

■AI時代に、人的資本経営はデータテクノロジーとつながる ── 鍵は「スキル」

ここにAI時代の本格化が重なる。AIエージェント、自然言語処理、学習データの即時解析、業務プロセスの自動化。これらの技術が現場に降りてきたことで、人的資本経営を取り巻く前提条件が、初めて構造的に変わり始めた。
その結節点として浮上してきた概念が、「スキル」である。2025年に米国ラスベガスで開催されたHR Technology Conferenceでは、AIエージェントの本格的な導入とともに、HR領域における二つの「神話」の崩壊が指摘された。
第一に、人を「ジョブ(職務)」で定義する時代から「スキルと能力(Capabilities)」で定義する時代への移行。
第二に、スキルギャップを「外部採用」で埋める発想から、Internal Mobility(社内異動・育成)を解決策に据える発想への転換である。
「スキル」という単位で人を捉え直せば、人的資本は初めてデータとして把握できるようになり、組織の中で配置・育成・補完の対象として運用できる。経営戦略が必要とする能力と、組織内に蓄積された能力の差分が見える化され、その差分にどう投資するかという経営判断が、初めて具体的に問えるようになる。抽象的な「人への投資」を語る段階は終わり、「どのスキルに、どこから、どれだけ投資するか」という経営判断のフェーズに入る。

■ただし、「スキル」の定義は一様ではない

ここで一度立ち止まる必要がある。「スキル」という言葉の定義は、論者によって、また活用される人事の文脈によって異なるのが現状である。
整理しないまま議論を進めると、経営層・人事部門・現場のマネージャーが、それぞれ別のものをイメージしたまま会話だけが進み、せっかく動き始めた現場実装が新たな抽象論へと逆戻りしかねない。
代表的な定義の傾向を、大まかな整理として以下に示す。

人的資本経営における「スキル」の新たな考え方

これらは互いに排他的というより、観点・運用文脈・前提とする人事モデルによって重心が変わる、多層的な概念群である。コンピテンシーをスキルに含めるか否か一つを取っても、研究領域・実務領域の双方で長く議論されてきた論点であり、唯一の正解が存在するわけではない。
重要なのは、自社が人的資本経営の文脈で「スキル」と呼ぶときに、どの観点・どの粒度を採用しているのかを、経営として明示的に選び取ることである。
この選択によって、必要となるデータ基盤も、AIエージェントの設計思想も、人材育成の運用も大きく異なる。「スキル」をどう定義するかは、技術論ではなく経営の意思決定である。

■スキルが結ぶ、経営と現場 ── 流動化時代の現場実装

スキルベースの人的資本マネジメントは、欧米企業ではすでに実装段階に入っている。IBMの社内HRエージェント「AskHR」は、従業員からのHR関連問い合わせの約80%を自動で解決し、それまで運用されていた30種類以上のボットを統合・廃止したと報告されている。AIエージェントが反復業務を担うことで、人事部門は組織のスキルマップとビジネス戦略の接続という、本来の戦略人事の仕事に向き合えるようになる。
人材流動化も、すでに経営の前提となっている。社内異動、副業、アルムナイ、外部人材の活用。社員と組織の境界は相対化されつつある。D4DR・HR未来共創研究所が描く2050年の未来像においては、人的資本データが企業ではなく個人に帰属し、個人と組織が直接マッチングしていく姿が示されている。この未来からバックキャスティングしたとき、いま企業が向き合うべき問いは、「どう開示するか」ではない。「自社にとって、どのスキルが事業価値に直結するのか」を、自社のスキル定義とともに、経営の言葉として定義できているかどうかである。
人的資本経営は、長らく机上の空論として語られてきた。だが、AI時代が到来し、「スキル」を結節点としたデータテクノロジーとの接続が現実になったいま、ようやく現場で動く実装が可能なフェーズに入った。これは人事部門にとっての好機であると同時に、経営の側に問いが返される局面でもある。

■本シリーズの問い

本シリーズは、人的資本経営を「机上の空論」から「現場の実装」へと引き戻し、経営の言葉として組み立て直すことを目的とする。次回以降は、筆者が現地参加するATD2026での見聞を踏まえ、米国HRの最前線が日本企業に投げかけている問いを論じていく。
問いは一つである。あなたの会社の人的資本経営は、いまも机上の空論にとどまっているのか。それとも、「スキル」を結節点に、現場で動き始めているのか。