第2回:人的資本報告・開示の国際動向

連載「グローバル視点における今後の人的資本経営のゆくえ」

HR未来共創研究所 研究員(慶應義塾大学大学院経営管理研究科講師)
岩本隆
第1回では、人的資本経営に関連する国際規格の開発が、ISO(International Organization for Standardization:国際標準化機構)の複数のTC(Technical Committee:専門委員会)で急速に進んでいる状況を概観した。そして、それらの規格は海外から押しつけられる制約ではなく、日本企業が強みとする「人を大切にする経営」を世界に発信するための武器になり得る、と述べた。
もっとも、武器として使うには、自社の人材力・組織力を、誰が見ても分かる形で示す必要がある。売上高や利益と異なり、人材や組織の状態には長らく共通のものさしがなかった。各社が独自の指標を掲げても、投資家も取引先も求職者も、それを他社と比べようがない。このものさしを国際的に揃えようという試みが、人的資本報告・開示の国際規格である。
その中核をなすのが、ISO/TC 260(Human resource management:人材マネジメント)が開発した「ISO 30414」であり、2025年8月に、初版から7年ぶりとなる改訂版が出版された。第2回となる本稿では、この改訂で何がどう変わったのかを具体的に確認した上で、サステナビリティ開示という国際的な大きな流れの中に、人的資本開示を位置づけ直してみたい。規格名や数字が多く登場するが、押さえるべき論点は「何を、誰に、どこまで示すことが世界の標準になりつつあるのか」の一点である。
■国際標準化の動向
世界経済フォーラムが「第四次産業革命」と名付けた2010年代以降、世界の産業構造は大きく変化した。データやAI(Artificial Intelligence:人工知能)といったテクノロジーを活用したビジネスが大きく成長し、時価総額上位企業では、企業価値に占める無形資産の比重が高まっている。言い換えれば、株価が無形資産の価値に大きく左右されるようになった、ということである。無形資産は、知的財産、ナレッジ、ノウハウ、ブランド、顧客基盤など様々なものがあるが、中でも最も重要なのは人材力と組織力である。こうした認識のもと、2011年、ISOに、人材マネジメントを扱うTCとしてISO/TC 260が創設され、人的資本経営の状態を測定するための国際規格の開発が進められている。
なお、英語の「Standard」には「標準」と「規格」という2種類の訳語が併用されており、混同を招きやすい。日本規格協会グループでは、標準を、規格の「普及」といった意味合いまで含む広義の概念として定義している。
ISO/TC 260からは、2026年6月末時点で33件の国際規格が発行されている。このうち、人的資本報告・開示の全体像をまとめた国際規格が、2018年12月に出版された「ISO 30414:2018」である。初版の出版後、各国・地域における活用状況などを踏まえて改訂の議論が重ねられ、2025年8月に改訂版「ISO 30414:2025」が出版された。ISO 30414:2018のタイトルは「Guidelines for internal and external human capital reporting(内部・外部への人的資本報告のガイドライン)」であったが、改訂版では「Requirements and recommendations for human capital reporting and disclosure(人的資本報告・開示の要求・推奨)」に変更された。改訂版には要求事項が盛り込まれ、ガイドラインにとどまらない、より必須度の高い国際規格となったといえる。
図表1.ISO 30414の改訂による11の人的資本領域におけるメトリック数の増減
11の人的資本領域は、ISO 30414:2018ではアルファベット順に並べられていたが、ISO 30414:2025では意味のある順序に並べ替えられた。「ワークフォースの組成」と「ダイバーシティ」は人的資本の基本情報、「コスト」と「生産性」は財務データと連動した人的資本情報である。続く「健康、安全、ウェルビーイング」「リーダーシップ、文化、エンゲージメント」「コンプライアンス、倫理、ワークフォースとの関係」は企業全体の人的資本経営の仕組みに関する情報、「リクルートメント」「ワークフォースの異動、後継者計画」「ワークフォースの離職」「スキル、ケイパビリティ、開発」はタレントマネジメントの情報である。あわせて、領域の統合、分離等も行われた。「リーダーシップ」と「文化、エンゲージメント」は統合され、「リクルートメント、異動、離職」は3領域に分離され、「後継者計画」は「異動」に統合されている。
メトリック総数は58から69へと11項目増加した。最も増えたのは「コンプライアンス、倫理、ワークフォースとの関係」の領域であり、中でも特徴的なのは、報酬比率(Pay ratio)に関するメトリックが4項目追加されたことである。「同一労働同一賃金」の考え方が世界的に広がり、労働の価値に見合う適切な報酬を提供することが、これまで以上に求められている。日本では年功序列の仕組みを残す企業がなお多いが、これは世界の基準に照らせば、同一労働同一賃金に則った報酬制度とはみなされず、「年齢差別」ととらえられる。
図表2は、ISO 30414:2025における人的資本領域別の要求・推奨メトリック数を示したものである。14項目の要求メトリックは、企業規模にかかわらず、全ての企業に開示が求められる。推奨メトリックについては、大企業では内部活用向けが55項目、外部開示向けが23項目、中小企業では内部活用向けが30項目である。なお、この合計69項目のメトリックに加えて、自社独自のメトリックを定義して報告・開示することも差し支えない。
図表2.ISO 30414:2025の人的資本領域別の要求・推奨メトリック数
■サステナビリティ開示における人的資本開示
企業報告を巡っては、サステナビリティ情報の開示義務化が国際的に進んでいる。サステナビリティを構成する要素の1つが人的資本であることから、人的資本開示の義務化項目も少しずつ増えてきた。国際的なサステナビリティ開示基準を開発するISSB(International Sustainability Standards Board:国際サステナビリティ基準審議会)では、2024年夏から2年間の人的資本リサーチプロジェクトが進行しており、国際的な人的資本開示基準の開発が進んでいる。2026年の第4四半期には、その方向性が示される予定であり、これを踏まえて各国・地域の人的資本開示に関する政策もアップデートされていく見通しである。
サステナビリティ経営には、社会をサステナブルにするビジネスを営むことと、自社をサステナブルにする(持続的に企業価値を向上させる)ことを同期させることが求められる。自社のサステナビリティを実現する上でも、人的資本経営は重要である。従って、人的資本経営を自社が正しく実践していることを国際的な基準に基づいて報告・開示することは、今後、国際的に必須になっていくであろう。そして、それ以上に重要なのは、自社の従業員に向けて、自社の人的資本経営を、根拠をもって説明できることである。その意味でも、企業には人的資本報告・開示を着実に進めていくことが求められる。
■まとめ――測ることから始まる人的資本経営
本稿の内容を、3点に整理しておきたい。第1に、人的資本報告・開示の国際規格であるISO 30414は、2025年8月の改訂により、「ガイドライン」から「要求事項」を含む規格へとその性格を変えた。第2に、メトリックは58項目から69項目へと増え、11の人的資本領域は意味のある順序に並べ替えられた。とりわけ報酬比率に関するメトリックの追加は、年功序列の仕組みを残す日本企業にとって、重い問いを含んでいる。第3に、ISSBによる国際的な人的資本開示基準の方向性が2026年の第4四半期に示される予定であり、各国・地域の政策はこれを踏まえて更新されていく。
企業にとっての実務的な含意は明快である。まずは、69項目のメトリックに照らして、自社が今どこまで測れているのかを棚卸しすることである。測れていない項目があること自体は、何ら問題ではない。問題は、測れていないことに気づかないまま、自社の人的資本経営を語ってしまうことである。
人的資本の報告・開示は、投資家対応という「守り」の作業にとどまるものではない。世界共通のものさしで自社を測る作業は、経営者が自社の人材力・組織力を言葉にし、従業員と対話するための言語を手に入れる作業でもある。国際規格は、守らされるものではなく、使いこなすものである。本連載では次回以降も、国際規格の動向と、それを自社の経営にどう活かすかを、具体的に取り上げていく。