第3回:付加価値を生む3つの「非」〈前編〉── AI時代の人材開発は何に投資すべきか

連載「人材流動化時代の人的資本経営」
マーケティングの世界には、「3つの不」という古典的なフレームがある。不便・不安・不満。ある製品やサービスが世の中に受け入れられるかどうかは、この3つの「不」のいずれかを解消できているかで決まる――企業の付加価値はそこから生まれる、という発想だ。
AI時代の人材開発を設計するにあたって、私は同じ発想で「3つの非」を提示したい。非認知能力・非金銭報酬・非合理判断。いずれも、AIには任せられない、人と組織の間にしか生まれない領域である。
マーケティングが「3つの不」を解消することで顧客に付加価値を提供するように、AI時代の人材開発は「3つの非」を意識して育てることで、組織の付加価値を生み出す。本稿は、この補助線を引く試みである。
第1回では、AI時代の人的資本経営を実装のフェーズへ引き戻す鍵は「スキル」にあると論じた。第2回では、そのスキルを活かすには組織にHI(Human Intelligence)の厚みが要ることを、ATD-ICE2026(以下、ATD26)の3つの基調講演から論じた。
第3回となる本稿が答えるのは、そのHIを現場で組み立てる時、企業は具体的に何に投資すべきか、という問いである。答えが、この3つの「非」にあたる。
なお本稿は、分量の都合により前後編に分けて掲載する。前編にあたる今回が扱うのは、3つのうち最初の2つ ── 非認知能力と非金銭報酬である。
付加価値の生まれる場所が、AIによって変わり始めた
企業の労働生産性は、「付加価値」を「労働投入量」で割った値で決まる。AIは、この式の分母と分子を同時に変えつつある。
分母の労働投入は、業務プロセスの自動化と省人化で急速に減っていく。分子の付加価値は、AIが担える領域と担えない領域とで、何をもって価値とするか、その中身そのものが変わり始めている。
意思決定を「観察→分析→判断→実行(賭ける)」の4つのプロセスに分解してみる。
これまで、企業のホワイトカラーが高給を得てきた根拠は、主に真ん中の「分析」と「判断」にあった。データを構造化して比較し、選択肢の中から根拠を持って選ぶ力である。
この2つが、AIの得意領域と正面から重なった。今後、企業がホワイトカラーに「分析」と「判断」だけで給料を払う根拠は、確実に細くなっていく。
では、人に何が残るのか。答えは、両端の「観察」と「実行(賭ける)」である。
データになる前の兆しに気づく力、そして根拠が不足していても決めて責任を引き受ける力。この2つは、AIには任せられない。企業の付加価値は、この両端で作り込まれる時代に入っていく。
意思決定4プロセスと、人に残る「観察」と「実行(賭ける)」
同じことを個人の能力の側から見れば、AIに任せられる「認知能力」と、人にしか担えない「非認知能力」という対比が立ち上がる。
認知能力とは、情報を理解し、覚え、計算し、整理し、判断する力である。記憶力、計算力、読解力、情報収集力、整理力、翻訳力、文書作成力、分析力、論理的思考、計画力。
教育と採用が長年にわたって測ってきた「賢さ」の中身は、ほぼこの領域に収まる。そして、その全てがAIの得意領域と重なっていく。
一方、非認知能力は、行動・感情・関係性・姿勢・習慣に関わる力を指す。好奇心、主体性、粘り強さ、共感力、柔軟性、創造性、意味づける力、批判的思考、学習敏捷性、誠実さ。
テストの点数では測れない領域だが、意思決定4プロセスの「観察」と「実行(賭ける)」を支えているのは、いずれもこちら側の力である。ここに、第1の「非」がある。

認知能力と非認知能力 ── それぞれ10の例
第1の「非」── 非認知能力
非認知能力への投資は理念の話ではなく、AIの浸透に伴う緊急の実務課題になりつつある。ATD26で登壇したNeuroLeadership Institute創設者 David Rockは、その根拠となる実験結果を紹介した。
会場でAIに文章を書かせた直後、「いま自分が書いた一文を、そのまま言ってみてください」と求めると、AIを使った人の83%が言えなかったという。同じ問いを、検索して調べて書いた人に投げると、再現できなかったのは11%まで下がる。AIに書かせた内容は、書いた本人の頭に残らないのである。
学びが定着するには、注意(Attention)、生成(Generation)、感情(Emotion)、間隔(Spacing)の4条件が要る。AIは、この4条件のいずれをも奪う方向に働く。
つまり、AIを日常的に使う環境が広がるほど、社員の認知能力は使わないまま衰えていく。同時に、AIが認知の仕事を代替すればするほど、企業の付加価値は非認知の側にしか残らなくなる。この2つが同時に進行しているのが、いまの構造である。
具体的な兆候は、ATD26の現場でも確認できた。医療機器メーカー Intuitive Surgical と人材開発プラットフォーム Chronus の共同発表で示されたPDP(個人開発計画)データによれば、社員が自ら掲げた能力開発目標の1位はリーダーシップ(88%)で、AIリテラシーは5位(25%)にとどまった。
ATD26が今年繰り返し掲げたスローガンは "More Human, More AI"。AIが広がるほど、人と関わる力の需要が高まる、という意味である。
日本のリスキリング投資は、いまなおデジタルスキル研修に偏っている。世界の投資は、明らかに非認知の側へ重心を移しつつある。第1の「非」が問うているのは、この落差である。

社員が自ら掲げた能力開発目標 ── リーダーシップ88% vs AIリテラシー25%
第2の「非」── 非金銭報酬
人材開発の議論で長く主戦場だったのは、金銭報酬(賃金・賞与)、金銭的な福利厚生(住宅補助・保険)、制度的な労働環境(休暇・勤務地・時短)である。第1回で論じた「人への投資」の中心も、ここにあった。だが、これらはいずれも、社員の熱意を毎日は渡せない。
給与は月に一度、賞与は半年に一度、制度は数年に一度しか動かない。給与明細を見て毎日感動する人はいない。社員の熱意を毎日渡せる報酬は、別にある。非金銭報酬である。
私はこれを「意味・関係・成長」の3つに整理している。ギャラップが世界140か国以上の労働者を対象に続けてきた調査「Q12」の12項目を、この3つに分類し直したものだ。
意味の報酬とは、「この仕事は何のためにあるのか」に答える報酬である。目的、ユーザー、社会的意義と、目の前の作業とをつなぐ言葉が渡されているか。
関係の報酬とは、「この人たちと働けてよかった」と思える報酬である。信頼、対話、認め合う関係が組織の中にあるか。
成長の報酬とは、「自分は伸びている」という感覚を社員に渡す報酬である。新しいことに挑戦する機会があるか、できることが増えているか、視野が広がっているか。
この3つが、社員の熱意を日々作り直していく。

熱意を生む環境 ── 意味・関係・成長の非金銭報酬
ATD26では、非金銭報酬の重要性を強調する登壇が相次いだ。中でも印象的だったのは、リテンション研究の第一人者 Bev Kaye(BevKaye&Co.創業者、登壇時82歳)である。
26年前に上梓した『Love 'Em or Lose 'Em』を、Kayeはこれまで6回書き改めてきた。累計90万部を超えるロングセラーである。その彼女が、今回のセッションでこう語った。
「26年間、6回書き直しても、人が会社に留まる理由の3つは変わらない。成長、関係性、そして文化である」。
Kayeが「文化」と呼んだのは、「この会社は何のためにあるのか」が社員に共有されている状態を指す。私の言葉に置き換えれば、意味の報酬そのものである。
金融大手 Capital One の Jerry Souser(Head of Executive Experiences & Enterprise Coaching)によるセッション「Coaching for All」では、非金銭報酬の中でも「成長」を、25年かけて全社員に届ける仕組みが共有された。
同社はコーチングを、役員だけの特別な投資から、いまやグローバル従業員10,000人のうち約3分の1が受けるところまで広げてきた。
誰にコーチングを受けさせるかは、役職の順ではなく、キャリアの節目(入社、初めて部下を持つ時、異動)で判断する。25年続く、社内で最も息の長いリテンション投資である。

Gallup Q12 の12項目を「意味・関係・成長」で再整理
日本の職場で、非金銭報酬はかつて自然に渡されていた。喫煙所での雑談、飲み会での仕事観の共有、残業の夜の意味の伝達、終身雇用と同質性が生んだ「以心伝心」。
これらの場が消えたいま、非金銭報酬は意図して設計しなければ渡らない。1on1と評価面談を「進捗確認の場」から「意味・関係・成長を渡す場」に再定義すること。それが、人事に問われている新しい仕事である。
前編のまとめ ── 2つの「非」は、同じ一点を指している
非認知能力と非金銭報酬。ここまで論じてきた2つの「非」は、一見すると別々の話に見える。
前者は個人の能力の話であり、後者は組織が渡す報酬の話である。だが、2つが指しているのは同じ一点だ。AIには担えない領域にこそ、これからの付加価値が宿る、ということである。
非認知能力は、個人の側から見た「AIに代替されない力」である。
非金銭報酬は、組織の側から見た「AIには渡せない価値」である。
個人と組織、能力と報酬。角度は違うが、どちらも数値化しにくく、制度にも落としにくい。だからこそ、長らく人材開発の周縁に置かれてきた。AIが認知の仕事を引き受け始めたいま、その周縁が中心へ移りつつある。
投資の順序も変わる。デジタルスキル研修に予算を寄せる判断は、AIが未成熟な時代には正しかった。だが、AIが「分析」と「判断」を肩代わりする時代に、同じ配分を続ける合理性は薄い。
問われているのは、測れるものへの投資から、測りにくいが代替されないものへの投資へ、重心を移せるかどうかである。
そして、残る一つの「非」がある。非合理判断 ── 根拠が完全に揃わない状況で決め、結果に責任を引き受け、間違えば修正する力である。
意思決定の4プロセスでいえば、最後の「実行(賭ける)」にあたる領域だ。AIが「分析」と「判断」を担うほど、この領域は経営層だけでなく、社員一人ひとりの日常にも降りてくる。
後編となる次回は、この3番目の「非」から論を起こす。あわせて、3つの「非」を現場に届ける主体 ── 人事部門そのものの再定義にも踏み込みたい。
